南相馬市大町病院の医師からの情報

南相馬市大町病院の医師から、3月14日の水素爆発後の大町病院での患者搬送などについての経緯をメーリングリストでご紹介いただいたので、転載します。


一部の記述が不正確なのではないかとの意見も頂きました(例えば、水素爆発の直後の各病院の記述だったり、人口、介護老人数など)。
しかし、このメッセージで一番肝心なことは、当時、他病院の動向は噂、風評でしかわからなかったということ、この地域は、いまだに混乱が続いているということです。

 

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自己紹介をしたいところですが、長文となると思いますので省略します。大町病院のことは上先生のホームページ (http://expres.umin.jp/info/acv/2011/04/post-125.html#more)にも書かれていますので、合わせてご覧になってください。(その中で立谷相馬市長が理事長となっていますが理事の誤りです。旧猪又病院で研修されたこともあり、猪又病院が会社健診の一部160万を健康保険で請求し廃院になった際に、病院存続のため尽力して下さいました。また猪又院長は看護師やパラメディカルが大挙していなくなったと話されたようですが、医者の中でも逃げた医者もいますし、夫が職場まで連れに来てごめんねごめんねと泣きながら去っていった看護師もいますので少しニュアンスは違います。)

 

本院は3号炉が水素?爆発し国から屋内退避の指示が出た3月14日頃でも患者移動の動きはありませんでした。南相馬市内の4病院のうち、南相馬市立病院、渡辺病院は自分達で放射線濃度を測り、病院休院を決め、患者移送を始めていました。
当時は放射線濃度のテロップは流れて無く、大町病院と小野田病院だけが少なくなったスタッフで入院患者を診ていましたが、物資が殆ど底を突く窮状がテレビで報道され、県の災害対策本部に伝わって、2病院に対し患者の内訳の調査が始まったのは16日でした。

しかし160名くらいいた私共の病院患者を受け入れてくれる病院は福島県内には無く、17日に4人の入院透析患者を(県立医大腎高血圧内分泌内科の先生の計らいで)福島市内の病院や老健施設に移した後は、一旦途切れてしまいました。
退院できそうな患者を家族に引き取ってもらっても130名ほど入院患者が残って、食料も19日には無くなると報告されていました。

18日夕方90名ほど群馬県の病院で受け入れてくれることが連絡が入り、5名の医師で紹介状を書き、10名ほどの看護師で患者家族連絡先がわかる1号紙と最近の温度版をコピーしました。ボランティアの人たちは患者さんの首にかける名札を作ってくれました。

19日12時警視庁の護送バス(このバスが一番乗りやすかった、入り口は広いし、通路も広い)に62名(数名は直前に具合悪くなり搬送中止)の患者を乗せて、川俣高校でサーベイランスを受けた後、常磐交通のバスに乗り換えました。この時に要した時間が1時間くらいあり、無駄な時間と思われました。

また観光バスは患者移送には良くないと思いました。医療スタッフは私と看護師2名(ボランティア2名)がバス3台に分乗しましたが、椅子から辷り落ちたり吐いたりして大変でした。夜10時頃前橋に着いた時は前橋日赤のスタッフがバスから狭い通路を降ろしてくれましたが、患者も我々もくたくたの状態でした。
帰りはバスの後ろを付いていった病院救急車に乗り、帰ってきました(20日朝6時)。

20日12時頃県立医大に残りの患者(63名)をヘリコプター搬送する話が入り、移動の準備をしましたが、雨が降ったり、ベント?の予定が入ったりしてヘリコプターで移動できたのは10名だけでした。これらの患者は重症の1名が県立医大に残り、9名は翌日群馬県に救急搬送されました。

残った53名の見通しは無かったのですが、21日朝自衛隊の車で搬送されることになり、最後に載せた最重症者4名(気管切開3名)に私が同乗し、付いていきました。この時も病院から10km位北にある(福島原発からは35km)でサーベイランスとDMATによるトリアージを受けた後全国から来た救急車に分乗しました。
自衛隊の方には申し訳ありませんが、自衛隊の護送車は患者搬送には適していません。床が低く、二段ベッドで、特に下の患者の処置をすることはできませんでした。また暖房が床の下から熱風が出てくるようで、すぐ切ってもらいました。15分くらいの移動でしたが(トリアージ、サーベイランス待ちで更に30分)私の乗らない護送車は日干し状態のままだったようです。3名の喀痰吸引は私が救急車を移動してでもやろうと思っていましたが、DMATの先生方が2名救急車に同乗して下さり、群馬まで行ってくれました。

結局21日は前橋で全員再トリアージするわけではなく、直接収容が決まっていた病院に収容されました。私の同乗した患者は前橋日赤に収容されることになり、前橋に着いたのは夜7時頃でした。この日は病院の救急車は付いてきていなく、前橋滞在を決め、前橋駅前のホテルに泊まりました。前橋日赤救命救急センターの中野先生からもらった収容先病院リストを参考に翌日から群馬県内39病院を回りました。患者の無事を確認し、先生方に大町病院との連絡がとれなくなった場合にと、私の名刺に自分の携帯電話の番号を書き添えておきました。4日間かかりましたが、搬送翌日に100歳の方が、6日目に73歳の方が亡くなっていました。(その後も亡くなる方が増え、今日現在124名中8名の方が亡くなっています。)


26日病院に戻りましたが、患者のいなくなった病院は閑散としており、僅かに残ったスタッフとボランティアの人とで後片付けをしている状態でした。周りの調剤薬局も閉まっており、時々休診を知らずに来る患者に薬を処方しても相馬に行かないともらえないという不便な状態でした。

しかし、病院再開の問い合わせの電話が絶たず、猪又院長から4月4日から外来を始めようと話があったのは27日だったと思います。病院のホームページ(http://www.ohmachi.jp)の書き換え、MRさんから調剤薬局に連絡してもらったり、病院内の薬局の在庫を調べたり、再開準備は並大抵のものでは無かったようです。

4月2日に開かれた臨時の理事会でも、立谷理事から相馬に集中している南相馬の入院患者の受け皿になって欲しいとの要望がありました。この時点では1フロア分18名くらいの入院患者があっても良いよう看護師数は確保していましたが、福島県の地域医療課から大町病院は5名まで入院期間は2~3日以内との制約を受けてしまいました。3月14日に屋内退避、3月23日に自主避難区域に指定されていましたが、制約の理由が分かりませんでした。

4月4日に外来を開始しましたが、当然のごとく入院患者も発生します。
6日には最初の救急患者が運ばれてきました。血糖値が1200mg/dlあり、意識も混濁していました。この日NHKニュースウオッチ9の大越キャスターが取材に訪れ、規制のことを伝えてくれました。

4月11日にこの地区が緊急時避難準備区域に指定されました。地域に子供、妊婦、介護老人、入院患者等は(外から)入らないようにということであってこの地域にいてはならないということではないと思います。実際小中学生はバスで相馬などの学校へ集団登校していますし、南相馬で出産予定の妊婦もいます。介護老人も108名ほどいて、自衛隊は居場所を確認していったようですが、今すぐ移動させようという動きはありませんでした。また市民は徐々に南相馬に戻ってきています(4月5日頃18000人、現在約38000人)が、自主避難の意味を(元々は自分で避難先を捜して移動することだったが自力で避難するようにと)すり替えて使っています。また緊急時に自主避難するか屋内退避するか2つの方法を選ばせるようになっており、必ずしも避難することに固執していません。病院はコンクリート造りであり、狭いですがCT室が最高の避難場所と言えるくらい屋内退避に相応しい場所です。ですから介護老人も緊急時(格納庫爆発などで大量の放射線物質が短時間に放出された時)に慌てて仙台方向に避難させるより、救急車で病院に連れてきてあげるほうがよっぽど良いように思います。そんなわけで地域医療課が5名の枠にこだわる理由が良く分かりません。5月5日に大町病院を訪れてくれた上先生、松村先生には私達の小言を聞いて頂き、このメーリングリストの皆さんへの配信を勧めてもらいました。


5月6日のニュースウオッチ9にも"崩壊した南相馬の救急医療"が紹介されました。今後救急患者で受け入れ体制など問題になる症例がありましたら配信していきます。

 

 

 

 

 

 

 

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自己紹介をしたいところですが、長文となると思いますので省略します。大町病院のことは上先生のホームページ (http://expres.umin.jp/info/acv/2011/04/post-125.html#more)にも書かれていますので、合わせてご覧になってください。(その中で立谷相馬市長が理事長となっていますが理事の誤りです。旧猪又病院で研修されたこともあり、猪又病院が会社健診の一部160万を健康保険で請求し廃院になった際に、病院存続のため尽力して下さいました。また猪又院長は看護師やパラメディカルが大挙していなくなったと話されたようですが、医者の中でも逃げた医者もいますし、夫が職場まで連れに来てごめんねごめんねと泣きながら去っていった看護師もいますので少しニュアンスは違います。)

 

本院は3号炉が水素?爆発し国から屋内退避の指示が出た3月14日頃でも患者移動の動きはありませんでした。南相馬市内の4病院のうち、南相馬市立病院、渡辺病院は自分達で放射線濃度を測り、病院休院を決め、患者移送を始めていました。
当時は放射線濃度のテロップは流れて無く、大町病院と小野田病院だけが少なくなったスタッフで入院患者を診ていましたが、物資が殆ど底を突く窮状がテレビで報道され、県の災害対策本部に伝わって、2病院に対し患者の内訳の調査が始まったのは16日でした。

しかし160名くらいいた私共の病院患者を受け入れてくれる病院は福島県内には無く、17日に4人の入院透析患者を(県立医大腎高血圧内分泌内科の先生の計らいで)福島市内の病院や老健施設に移した後は、一旦途切れてしまいました。
退院できそうな患者を家族に引き取ってもらっても130名ほど入院患者が残って、食料も19日には無くなると報告されていました。

18日夕方90名ほど群馬県の病院で受け入れてくれることが連絡が入り、5名の医師で紹介状を書き、10名ほどの看護師で患者家族連絡先がわかる1号紙と最近の温度版をコピーしました。ボランティアの人たちは患者さんの首にかける名札を作ってくれました。

19日12時警視庁の護送バス(このバスが一番乗りやすかった、入り口は広いし、通路も広い)に62名(数名は直前に具合悪くなり搬送中止)の患者を乗せて、川俣高校でサーベイランスを受けた後、常磐交通のバスに乗り換えました。この時に要した時間が1時間くらいあり、無駄な時間と思われました。

また観光バスは患者移送には良くないと思いました。医療スタッフは私と看護師2名(ボランティア2名)がバス3台に分乗しましたが、椅子から辷り落ちたり吐いたりして大変でした。夜10時頃前橋に着いた時は前橋日赤のスタッフがバスから狭い通路を降ろしてくれましたが、患者も我々もくたくたの状態でした。
帰りはバスの後ろを付いていった病院救急車に乗り、帰ってきました(20日朝6時)。

20日12時頃県立医大に残りの患者(63名)をヘリコプター搬送する話が入り、移動の準備をしましたが、雨が降ったり、ベント?の予定が入ったりしてヘリコプターで移動できたのは10名だけでした。これらの患者は重症の1名が県立医大に残り、9名は翌日群馬県に救急搬送されました。

残った53名の見通しは無かったのですが、21日朝自衛隊の車で搬送されることになり、最後に載せた最重症者4名(気管切開3名)に私が同乗し、付いていきました。この時も病院から10km位北にある(福島原発からは35km)でサーベイランスとDMATによるトリアージを受けた後全国から来た救急車に分乗しました。
自衛隊の方には申し訳ありませんが、自衛隊の護送車は患者搬送には適していません。床が低く、二段ベッドで、特に下の患者の処置をすることはできませんでした。また暖房が床の下から熱風が出てくるようで、すぐ切ってもらいました。15分くらいの移動でしたが(トリアージ、サーベイランス待ちで更に30分)私の乗らない護送車は日干し状態のままだったようです。3名の喀痰吸引は私が救急車を移動してでもやろうと思っていましたが、DMATの先生方が2名救急車に同乗して下さり、群馬まで行ってくれました。

結局21日は前橋で全員再トリアージするわけではなく、直接収容が決まっていた病院に収容されました。私の同乗した患者は前橋日赤に収容されることになり、前橋に着いたのは夜7時頃でした。この日は病院の救急車は付いてきていなく、前橋滞在を決め、前橋駅前のホテルに泊まりました。前橋日赤救命救急センターの中野先生からもらった収容先病院リストを参考に翌日から群馬県内39病院を回りました。患者の無事を確認し、先生方に大町病院との連絡がとれなくなった場合にと、私の名刺に自分の携帯電話の番号を書き添えておきました。4日間かかりましたが、搬送翌日に100歳の方が、6日目に73歳の方が亡くなっていました。(その後も亡くなる方が増え、今日現在124名中8名の方が亡くなっています。)


26日病院に戻りましたが、患者のいなくなった病院は閑散としており、僅かに残ったスタッフとボランティアの人とで後片付けをしている状態でした。周りの調剤薬局も閉まっており、時々休診を知らずに来る患者に薬を処方しても相馬に行かないともらえないという不便な状態でした。

しかし、病院再開の問い合わせの電話が絶たず、猪又院長から4月4日から外来を始めようと話があったのは27日だったと思います。病院のホームページ(http://www.ohmachi.jp)の書き換え、MRさんから調剤薬局に連絡してもらったり、病院内の薬局の在庫を調べたり、再開準備は並大抵のものでは無かったようです。

4月2日に開かれた臨時の理事会でも、立谷理事から相馬に集中している南相馬の入院患者の受け皿になって欲しいとの要望がありました。この時点では1フロア分18名くらいの入院患者があっても良いよう看護師数は確保していましたが、福島県の地域医療課から大町病院は5名まで入院期間は2~3日以内との制約を受けてしまいました。3月14日に屋内退避、3月23日に自主避難区域に指定されていましたが、制約の理由が分かりませんでした。

4月4日に外来を開始しましたが、当然のごとく入院患者も発生します。
6日には最初の救急患者が運ばれてきました。血糖値が1200mg/dlあり、意識も混濁していました。この日NHKニュースウオッチ9の大越キャスターが取材に訪れ、規制のことを伝えてくれました。

4月11日にこの地区が緊急時避難準備区域に指定されました。地域に子供、妊婦、介護老人、入院患者等は(外から)入らないようにということであってこの地域にいてはならないということではないと思います。実際小中学生はバスで相馬などの学校へ集団登校していますし、南相馬で出産予定の妊婦もいます。介護老人も108名ほどいて、自衛隊は居場所を確認していったようですが、今すぐ移動させようという動きはありませんでした。また市民は徐々に南相馬に戻ってきています(4月5日頃18000人、現在約38000人)が、自主避難の意味を(元々は自分で避難先を捜して移動することだったが自力で避難するようにと)すり替えて使っています。また緊急時に自主避難するか屋内退避するか2つの方法を選ばせるようになっており、必ずしも避難することに固執していません。病院はコンクリート造りであり、狭いですがCT室が最高の避難場所と言えるくらい屋内退避に相応しい場所です。ですから介護老人も緊急時(格納庫爆発などで大量の放射線物質が短時間に放出された時)に慌てて仙台方向に避難させるより、救急車で病院に連れてきてあげるほうがよっぽど良いように思います。そんなわけで地域医療課が5名の枠にこだわる理由が良く分かりません。5月5日に大町病院を訪れてくれた上先生、松村先生には私達の小言を聞いて頂き、このメーリングリストの皆さんへの配信を勧めてもらいました。


5月6日のニュースウオッチ9にも"崩壊した南相馬の救急医療"が紹介されました。今後救急患者で受け入れ体制など問題になる症例がありましたら配信していきます。