村上龍 JMMに「「新型インフルエンザに対するワクチン接種の基本方針」を読む」を発表しました


 政府の新型インフルエンザワクチンに関する方針発表を解説したものです。是非、お読み頂ければ幸いです。

 

「新型インフルエンザに対するワクチン接種の基本方針」を読む

 

 

 101日、政府は新型インフルエンザに対するワクチン接種の基本方針を発表しました。過去の連載で、新型インフルエンザ対策は民主党と厚労省医系技官の対立が明らかで、民主党政権の実力を占う試金石だと述べてきました。

 結論から申し上げますが、長妻厚労大臣は医系技官に言いくるめられた感じです。主な論点をご紹介しましょう。

 

【ワクチンの確保は十分か】

 厚労省によれば、合計7,700万人のワクチンが確保出来る見通しです。具体的には、2700万人分の国産ワクチンを、1019日の週から接種開始する予定です。また、年度内に5,000万人分の輸入ワクチンを確保し、12月末から1月にかけて輸入を開始するようです。

 日本の人口は12700万人ですから、年内に人口の20%に接種し、将来的に約60%の国民に対するワクチンを準備することを目指しています。

他の先進国もワクチン確保には必死です。例えば、825日のロイターによれば、米国は10億ドル以上をワクチン購入予算に割り振り、年内に16000万人(人口の50%)に接種を終える予定です。また、イギリスは人口の半分である3,000万人を対象に、来年初めまでに接種を完了する予定です。英米ともに、さらにワクチンを確保するように交渉中です。また、フランスはワクチン9,400万回分(二回うちとして、人口の77%相当)を注文し、カナダも5,000万回分(人口の78%相当)を確保しようとしています。

欧米先進国と比べ、我が国のワクチン確保量は、やや見劣りする程度です。問題は、欧米先進国より準備が遅れていることです。各国とも、年明けまでには国民の半分程度には接種を終える予定ですが、我が国は20%に過ぎません。新型インフルエンザの流行時期を考えれば、我が国のワクチン備蓄体制は大きな問題がありそうです。

 

 

【ワクチン輸入に消極的だった厚労省】

実は、日本政府がワクチン確保に出遅れたのは、医系技官がワクチン輸入に消極的だったためと言われています。

例えば、サンデー毎日927日号には「厚労省が欧州のメーカーと結んだ「仮契約」は8月下旬に切れたが、同社の問い合わせに応じず、11日現在で厚労省はこれを放置したままだという」、「同社が厚労省に示した日本向けワクチンの確保期限は918日。デッドラインを過ぎれば、日本の「予約分」は他国に流されてしまう」ことになっていました。つまり、海外ワクチンは、国内に入ってこないところでした」と紹介されています。医系技官は輸入ワクチンを妨害するため、サボタージュしていたことになります。

このような状況を強引に方向修正したのは、舛添前厚労大臣です。総辞職直前の911日の閣議後記者会見で、「海外メーカーから4200万人分を輸入できる見通し」と発表し、「不足するワクチンを輸入すること」の既成事実化を計りました。この発表は、勿論、官僚の意向に反したものでした。

この話、後日談があります。911日の閣議後記者会見では、国内で製造するワクチンは1800万人分の予定でした。それが、いつの間にか、2700万人分に増えたのです。

厚労省は、924日に記者クラブへのリークで、94日には、ワクチン増殖がうまく進まないことを想定して1800万人分としていたが、「製造効率が予想ほど低くならない見通し」(同省)と発表し(925日日経)、国産ワクチンの生産を2,700万人に上方修正しました。真相はわかりませんが、タイミングを考えても、俄には信じられない話です。

 

 

【厚労官僚は、なぜ国産ワクチンに固執するか】

なぜ、厚労省は、躍起になって国内ワクチンメーカーを守ろうとしているのでしょうか。この背景については、雑誌『選択』10月号の「ワクチン後進国 日本の惨状」が秀逸で、一読をお奨めします。

これまで、我が国のワクチン製造は、財団法人化血研や阪大微研、北里研究所のような学校法人が担ってきました。一方、世界のワクチン市場は急成長を続け(年間成長率16%)、グラクソ・スミスクライン、ノバルティスファーマ、サノフィ・アベンティス、メルクのような大企業が参入しています。国内でも、武田薬品が興味をもっています。

国内ワクチンメーカーの中には、高い技術力を誇るところが多いのですが、パンデミックに対応し、大量生産することは出来ません。世界的にワクチンへの関心が高まり、メガファーマが参入してきた以上、国産ワクチンメーカーは再編せざるを得ない運命です。厚労官僚の存在は、メガファーマにとり「参入障壁」となっています。

余談ですが、政府が発表した「新型インフルエンザワクチン接種の基本方針」の末尾には、「国は、今後、国産ワクチンによりインフルエンザワクチンの供給が確保されるよう、国内生産体制の拡充等を図るものとする」とあります。まるで、「これからも補助金漬けにして、護送船団を守るぞ」と言っているようです。このあたり、役人はしぶといです。

 

 

【重い自己負担 6,150円】

新型インフルエンザワクチンの接種費用は、生活保護や低所得者を除いて、自己負担です。二回の接種で6,150円が必要です。四人家族全員が接種するとすれば約2.5万円の出費となり、この負担は重くのしかかることは間違いないでしょう。多くの先進国で、新型インフルエンザワクチンは公費負担で、自己負担がないこととは対照的です。

ちなみに、ワクチンの接種率は、自己負担の有無が影響することが知られています。当然ですが、自己負担を高くすれば、接種する人は減ります。

 感染症学には「集団免疫」という考え方があります。国民の大半が免疫を持っていれば、たとえ感染者が外部から侵入してきても、感染症に対して弱い集団にはうつりにくく、守られるという意味です。インフルエンザの場合、国民の70-80%程度が免疫をもっていれば、大流行は防ぐことが可能と考えられています。逆に、ある一定レベルまで免疫を持っている人を増やさなければ、大流行は避けられません。このように考えれば、6,150円の自己負担が極めて大きな意味を持つことがお分かりでしょう。

 今回、政府は1,000億円程度の予備費をワクチン接種費用に充てています。予備費の総額を考えれば、新型インフルエンザ対策に大きなウェイトを置いたことは間違いありません。しかしながら、政治主導で補正予算を組み、国民負担をなくすという選択肢もあったはずです。その総額は約5,000億円。数万の国民が亡くなるのですから、議論の価値はあります。民主党にとって、政治主導を示す恰好の舞台を逃したことになるかもしれません。

 余談ですが、厚労省の原案ではワクチン接種料は7,200円でした。約1,000円分を軽減したのは、足立信也政務官が強硬に主張したためだと言われています。

 

 

【輸入ワクチンは本当に危険か?】

 輸入ワクチンの安全性が懸念されています。厚労省は、ワクチンに関するパブリックコメント募集の案内で、1) 国内外で使用経験がないこと、2) 国内で使用経験のないアジュバント(免疫補助剤)を用いていること、3) 国内で使用経験のない細胞培養による製造法が用いられ、「がん原性は認められないものの、腫瘍原性がある」と説明し、アジュバントの使用と、細胞培養法の危険性を強調しています。これを読むと、誰でも輸入ワクチンは危険と考えるでしょう。

 ところが、この説明には具体的なデータは示されず、かなり一方的です。私は、輸入ワクチンの危険性は厚労省が喧伝するほどのものではないと考えています。その理由は以下です。

我が国が輸入を考えている新型インフルエンザワクチンは、ノバルティスファーマ(スイス)とグラクソ・スミスクライン(イギリス)の製品です。前者は細胞培養法を用い、後者は日本と同じ鶏卵培養法を用いています。細胞培養法は、鶏卵培養法より効率が良いのが特徴です。今回、ノバルティスはMDCK細胞というイヌの尿細管上皮由来の細胞を用いていますが、欧州では07年に同法を用いた季節性インフルエンザワクチンが承認され、臨床現場で用いられています。アジュバントは入っていませんが、これまで大きな問題は指摘されていません。厚労省は、この情報は伝えていません。

 厚労省は、細胞培養法で作成したワクチンを接種すれば、微量の動物細胞由来物質が体内に入り、腫瘍化の可能性が否定できないと指摘していますが、これは杞憂でしょう。ワクチン接種の際に混入する微量物質が原因となって、腫瘍が発生することなど、常識的に考えられません。

さらに、厚労省は、「がん原性はないが、腫瘍原性がある」などと、一般人に理解できない言葉を使っていますが、これは不適切です。腫瘍を専門とする私でも、何が言いたいか分かりません。このような表現を用いる場合、白血病や肉腫などの、上皮細胞由来でない悪性腫瘍か、あるいは良性腫瘍を指します。厚労省が、リスクを本気で心配するなら、具体的に書くべきです。勿論、専門家は否定するでしょう。

 次は、アジュバントについて考えましょう。グラクソ・スミスクラインは、「アジュバントとは、少ない抗原量で高い免疫応答を惹起させるためにワクチンの核となる抗原に添加するものです。「抗原節減型」ワクチンによって、大規模な人数分のH5N1型ワクチン製造が可能となり、より多くの人に対してインフルエンザ・パンデミックから守るための集団接種が出来るようになります。」と、パンデミック対応におけるアジュバントの意義を説明しています。

新型インフルエンザワクチンでは、グラクソ・スミスクラインはAS03、ノバルティスはMF59というアジュバントを用いています。AS03は、これまで市販されていませんが、過去にトリ・インフルエンザワクチンのアジュバントとして1万例を超える治験が行われています。一方、MF59を配合したワクチンは97年に初めて承認、過去に4,000万回分が出荷され、1.6万回の治験実績があります。両者とも大きな問題は指摘されていません。このような具体的な情報を厚労省は紹介すべきです。

 勿論、新型インフルエンザを対象とした初めてのワクチンという意味では、慎重な対応が必要なことは言うまでもありません。特に、ノバルティス社ワクチンでは、MF59MDCK細胞を初めて併用していることには留意すべきです。現在、両社は急ピッチで治験を実施しており、一部の結果は公表されています。対照的に、国内メーカーは治験をやらないようです。これでは、どちらが安全なのか分かりません。

 

 

【医学の常識を逸脱した10mlバイアル】

 厚労省はインフルエンザワクチンを10mlバイアルで供給すると発表しました。季節性インフルエンザワクチンは、通常、1mlバイアルで供給し、二人に接種します。医系技官は、バイアルの用量を大きくすれば、壁面や底に残るワクチンを節約できるので、接種可能な人数が増えると考えたようです。

 ところが、この方法は医学の常識に反する「机上の空論」です。私の周囲で、この問題を認識した医師は、ほぼ全員が反対しています。

 まず、ワクチンはゴムキャップに針を刺して吸い取りますが、この操作によって、空気中の細菌・ウイルスなどがバイアル中に押し込められます。これらの病原体は、時間がたつと急速に増殖するため。注射薬は、一度あけたら使い捨てが基本です。このため、多くの注射薬は、最初からシリンジ(注射器)に入っていて、吸い取る操作がいらない「プレフィルド・タイプ」になりつつあります。昨年、三重県の整形外科診療所が作り置きの点滴で院内感染が生じ、マスコミ騒ぎになりましたが、「10mlバイアル」案は大差ありません。

 次に、このような方法で、本当にワクチンが節約できるかも疑問です。一旦開封したワクチンは当日中に使い切らねばならず、添付文書にも明示されています。このため、一日のワクチン接種希望者の数が、20の倍数でなければ、多くのロスを生じます。例えば、21人なら、50%近いワクチンが廃棄されることになります。

 このように、まともな医者なら誰でも「論外」と考えることが、政府案として通ってしまうところが、我が国の医療行政の恐ろしさです。医療行政を司る医系技官が「ペーパードクター」と言われる由縁です。

 

 

【副作用の補償】

 ワクチンは、多くの国民を感染症から守りますが、一部に重篤な副作用が生じ、現在の医学では予見できません。ワクチンの普及には、ワクチン被害者に対する補償制度の整備が重要です。ところが、今回の新政府の方針は、ワクチンの補償という観点からは大きな問題を孕んでいます。

 まず、新型インフルエンザワクチンは、予防接種法に位置づけられていません。政府は「現行の予防接種法に基づく季節性インフルエンザの定期接種に関する措置を踏まえて必要な救済措置を講じることができるように検討を行い、速やかに立法措置を講じる」と述べています。政府が何と言おうが、現時点では、法律上、民民契約に基づく通常の医療行為です。

この場合、医薬品医療機器総合機構(PMDA)が運営する健康被害救済制度で補償されます。この制度は、薬の副作用を補償するため、製薬企業の拠出する基金で運営されています。ワクチン接種に、この制度を当てはめる場合の問題は、予防接種法に基づく補償より安いこと、およびワクチンによる薬理的副作用(医薬品を適正に使用した場合に、当然に予想される副作用)以外は救済されない可能性が高いことです。具体的には、注射部位の感染、注射による迷走神経反射で倒れて大怪我をしても補償されません(このような合併症も、予防接種法は救済します)。このような場合、被害者は裁判に訴えざるを得ません。

万一、ワクチン事故があった場合、被害者は、製薬会社や医療機関等を相手に訴訟を起こし、過失責任を立証し、勝訴しなければなりません。被害者の負担は、相当なものになるでしょう。結局、今回の措置は、「裁判に訴える患者だけが救済される」スキームを政府が認めてしまったことになり、世界の潮流に逆行します。これまで、何回も主張してきましたが、予防接種禍は訴訟をしなくても救済される「無過失補償制度」の整備が必要です。

 

 

【免責制度を作らず、訴訟費用を肩代わり】

 このような動きは、製薬メーカーにとっては大きなリスクです。今回は7,700万人がワクチンをうちます。10万件に1回の副作用、あるいは医療ミスでも770人の被害者が出てきます。集団訴訟は、企業イメージを損ね、巨額の賠償金が必要になります。

このため、海外メーカーの中には、米国やフランスの制度に倣って、ワクチン副作用の免責を強く主張し、免責が担保されなければ、ワクチンを輸出しないと主張した企業がありました。このような意向を受け、海外企業が敗訴した場合に、政府は賠償金を肩代わりすることを約束しました。

この判断は稚拙です。なぜなら、国内メーカーと海外メーカーを正当な理由もなく差別し、さらに、政府が「訴訟による被害者救済」を打ち出したため、判決は被害者有利にならざるを得ないためです。これは、海外メーカーにとっては、敗訴の連続によりブランドイメージを損ねる危険性があります。この結果、海外メーカーは我が国への参入を敬遠し、ワクチンラグを更に悪化させるかもしれません。

厚労省は、ワクチン副作用補償のための、新制度の創設を表明していますが、予防接種法と同じレベルの補償が行われるかは、法制度上、財政上、まったく不明です。十分な補償が行われることを願ってはいますが、楽観できない状況です。

いずれにせよ、医療行為の無過失補償・免責の仕組みができあがるまでは、法定接種のスキームこそが最良です。これは、国会での法改正は不要で、厚労省にやる気があれば、即座に実行が可能です。このように考えた場合、今回の厚労省の対応は、優先接種と称して、事実上、接種を勧奨し、法定接種に限りなく近づけつつ、責任と補償は回避していると見るのが妥当です。

 

 

【厚労省のガバナンス】

このように振り返ると、今回の新型インフルエンザ対策は、医系技官の主張がほぼ通ったようです。これは舛添前大臣時代とは対照的です。政権交代の過渡期の権力の空白だったのか、あるいは、医療に対する知識が少ない長妻厚労大臣が役人に操られているのかは、現時点では判断は出来ません。ただ、医系技官にとって、目の上のたんこぶであった舛添前厚労大臣が去って、厚労省のガバナンスは大きく変わったことは間違いなさそうです。