JMM 『絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート』 7

村上龍氏主催のメルマガJMMに拙文が掲載されております。

                      2008年6月18日発行
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JMM [Japan Mail Media]     No.484 Extra-Edition
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 ■ 『絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート』 上 昌広 

第7回 日本の医師不足~第二回 一県一医大構想と医師誘発需要

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『絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート』 第7回
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「日本の医師不足~第二回 一県一医大構想と医師誘発需要」

 昨日(6月17日)、舛添要一厚生労働大臣が、閣議後の記者会見で医学部の定員削減を決めた97年の閣議決定を見直し、医師の養成数を増やす方針に転換する考えを明らかにしました。「いまは医療崩壊の状態で、(97年の)閣議決定を見直す方向で調整すべきだということで、福田首相の了解をいただいた」と語ったようです。このニュースは、医療界にとって画期的なものであり、舛添厚労大臣の粘り強い努力に敬意を払います。

 我が国では医師不足問題が連日のようにマスメディアで報道されています。未曾有の高齢化を迎える我が国において、多くの国民は必要な医療を受けることができないことに対する漠然とした不安を感じておられると思います。なぜ、医師不足問題の解決が、こんなに困難なのでしょうか? 今回は、医師不足問題の議論の歴史的変遷をご紹介します。

■ 日本の医師数は世界最低水準にある

 日本の医師不足問題を議論するためには、その正確な状況を把握する必要があります。厚労省の医療動態調査によれば、2005年現在、我が国には29万人の医師免許取得者がいて、人口1000人あたり2.0人となります。人口10万程度の地方都市には、200人程度の医者がいるとイメージしていただけるといいでしょう。ちなみに、これは大学卒業直後の若者から、高齢者まで全てをふくむ数字です。

 適切な医師数を議論する上で、同じような発展段階にある外国との比較は有用です。OECDの調査によれば、我が国はもっとも医師数が少ないグループに属します。ちなみに、日本より少ない国は、メキシコ (1.7)、韓国 (1.6)、トルコ(1.5)だけで、先進国首脳会議に参加する国に限定すれば、イタリア4.2、フランス3.4、ドイツ3.4、オーストラリア2.7、米国2.4、イギリス2.3、カナダ2.1となり、日本は最低です(括弧内の数字は人口1000人あたりの医師数)。米国やイギリスなどのアングロサクソン系の国々で、コメディカルが発達しているのは、医師数と併せて考えれば理解しやすくなります。ちなみに、日本はコメディカルも医師も両方とも不足していると言うことができます。

■ 医師の過重労働

 医師の絶対数不足は、医師の過剰残業で代償されてきました。医師が少なければ、長時間働かざるを得ないのは自明です。

 2003年に厚労省が作成した「医師需給に関する検討会報告書」では、医師の労働時間は週平均で63.3時間、院外での勤務時間7.3時間を含めると、週平均の労働時間は70.6時間です。このデータに基づけば、1ヶ月あたりの時間外労働時間の平均は131時間になり、労働基準法の規定を大きく逸脱します。また、月の時間外労働時間が45時間を超えた場合、過労死の原因になりやすいため、極めて危険な状態とも言えます。実際に、これまでに多くの医師が過労死で亡くなっており、過労死認定を求め裁判で争われています(http://www5f.biglobe.ne.jp/~nakahara/)。このような裁判では、医師の過剰労働問題は医師の労働条件改善という側面以外に、患者が安全な医療を受けるためには、医師の残業を制限しなければならないという観点からも議論が行われています。

 ちなみに、医師過剰労働問題に対する厚労省の見解は、「休憩時間や自己研修は、通常は勤務時間とはみなされない時間であり、これらを含んだ時間を全て勤務時間と考えることは適切でない(2005年 医師需給に関する検討会報告書)」として、医師の労働時間を週48時間と解釈しました。この解釈は、医療現場の実感と著しく乖離したものであり、またデータの解釈が恣意的であったため、医療者に厚労省に対する不満が溜まりました。

■ 医師不足はいつから議論されたか?

 医師不足問題が社会の関心を集めるようになったのは、いつの頃からでしょうか。実は、そんなに古い話ではありません。

 医師不足問題が、主要新聞で取り上げられ始めたのは2003年です。以前、ご紹介させていただいた「医師名義貸し」報道と同じ頃です。医療界では「医師名義貸し報道」事件を契機に、医学部卒業生の研修必修化という制度改正、小泉政権による診療報酬引き下げにより、病院閉鎖が増加していくわけですが、時期を同じくして、マスメディアでの「医師不足」報道数は増加しました。主要5新聞の「医師不足」報道数は、2004年約556件、2005年約690件、2006年約1485件、2007年約3103件に達しました。ちなみに、2008年は、ほぼ毎日、大量に医師不足問題が報道されています。

 このようなマスメディアを通じた大量の「医師不足」報道を通じて、この数年の間に医師が足りないことが国民的コンセンサスとなりました。

■ 医師過剰と言われた時代があった:一県一医大構想

 では、2003年以前は、国民・医療界は医師数をどのように考えていたのでしょうか。前回の配信でも書かせていただきましたが、明治維新以降一貫して、医師不足は我が国の課題でした。しかしながら、過去に一度だけ、医師過剰の可能性が議論された時期がありました。それは、1970年代中盤から2000年くらいまでの25年間です。

 少子高齢化が進み、医師不足による医療崩壊が喧伝されている現在から振り返れば、馬鹿げているかと思うかもしれませんが、当時は多くの医療関係者が将来的には医師は余るのでないかと真剣に心配しました。当時の風潮を考える上で参考になる事実を紹介させていただきます。

 まず、1970年代の大量の医学部新設が挙げられます。戦後の人口増や無医村の解消を目的として、政府は1970年から1979年までの間に34の医学部を新設しました。この時期に設立された医学部は、前身の医師養成機関をもたないことが特徴で、人材を全面的に他大学に依存せざるを得ませんでした。医学部設立は順調に進み、1974年までに8つの国立大学医学部、14の私立大学医学部、2つの大学校(防衛医大、産業医大)が新設されました。

 しかしながら、この頃になって医療業界には「医師過剰」を指摘する声が強くなってきたため、1974年以降、医学部新設のスピードは減速しました。具体的には新規の私立大学医学部の開設は政府から許可されなくなりました。振り返れば、1974年には既に医師過剰が議論されていたことは、興味深いことです。ところが、1974年には当時の田中角栄内閣が一県一医大構想を発表し、世間の強い支持を集めました。このため、政府は、国立大学医学部に限って毎年二つ程度作り続けました。そして、最終的には1979年に琉球大学に医学部が創設され、一県一医大構想が実現します。

 このような急速な医学部開設による急速な医師増は、既に医師として働いている人々に大きな不安を与えたことは想像に難くありません。丁度、現在の弁護士業界と同じような雰囲気だったのでしょうか。当時、「イタリアでは、医者では食べていけないのでタクシーの運転手をしている」という噂がまことしやかに話されました。

■ 医師誘発需要と医療費亡国論

 ついで、医者が増えると医療費が増加するという医師誘発需要説が、もっともらしく議論されたことが挙げられます。1983年に米国の医療経済研究者であるRossiterたちのグループは、米国での実証研究の結果にもとづき、医師が増えると医療費が増加する学説を発表しました。この研究を詳細に読めばわかりますが、この研究では医師数が10%増加しても、外来受診の頻度の上昇はわずか0.6%でした。このように、医療需要喚起説は科学的には妥当であるものの、社会的に与える影響については疑問の余地があったのですが、多くの医療関係者の間では「医師を増やすと、医療費が増える」というコンセンサスができあがりました。これは、「医師の売り上げは、一人あたり1億円くらいはあるだろうから、人数が増えれば、それだけ医療費がふえるだろう」という医療者・厚生官僚の感覚ともマッチしたものだったのでしょう。

 1983年には、吉村仁厚生省保険局長(後の事務次官)が論文や講演・国会答弁などで「医療費亡国論」を主張します。ちなみに、吉村仁さんという人は、「ミスター官僚」や「厚生省の歴史を変えた男」などと呼ばれる伝説的人物です。「医療費の現状を正すためには、私は鬼にも蛇にもなる」と言い切り、医師優遇税制改革やサラリーマンの二割自己負担などの制度改正を行い、医療費の膨張に歯止めをかけようとしました。吉村氏は、広島県出身の被爆者で肝臓癌のため56歳の若さで亡くなります。吉村氏を中心とした厚生官僚は、医療費亡国論という学説に基づき、当時の中曽根内閣の増税なき財政再建路線、武見太郎氏退陣(1983年)による日本医師会の影響力低下などもあり、公的保険医療政策を医療費抑制方針に転換させました。医療費を減らすには医師数を増やしてはいけないと考え、1984年以降、医学部の定員を最大時に比べて7%削減しました。

 その後、1995年村山内閣の少子高齢化対策、1997年の医学部定員の削減に関する閣議決定、2002年から小泉内閣によって実施された骨太の改革へと繋がっていきます。

■ 医師誘発需要学説は否定された

 このように、1983年以来、政府は医師数削減政策の学術的根拠として「医師誘発需要学説」を挙げています。

 しかしながら、学問の分野は日進月歩であり、過去の学説がいつまでも支持されるとは限りません。医療経済学分野でも、様々なグループにより医師誘発需要学説についての追加研究が行われました。この結果は、驚くべきことに、1990年以降に米国や北欧で行われた全ての実証研究は「医師数を増やしても医療費は増加しない」と医師誘発需要説を否定したのです。

 1990年以降、情報工学の発達や米国医療界における情報開示が促進されたため、医療経済研究者の多くは、1990年以降の研究は、それ以前のものと比較して遙かに信頼できると考えました。彼らは、新しい研究の結果にもとづき、一部の医師は自らの収入を増やすため、不要な医療行為を行うが、その絶対数は少なく、国家レベルでは問題にならない、および、医療では医師と患者の間に情報の非対称が存在しても、患者の医療知識が増加するにつれ、医師が医療サービスを100%決定できず、患者の決定権が大きくなってきていると考えるようになりました。複雑さやスケールが増した系では、独自の理論体系が必要になるわけで、医師の一人あたりの稼ぎを根拠に医師誘発需要説を支持するのは暴論のようです。

 このように、医師誘発需要学説は、医療経済学の専門家の間では完全に否定されました。しかしながら、現在でも、一般社会は勿論、医療経済学者以外の医療者、厚労省の官僚の中には「医師が増えると医療費が増える」と信じている人が多いようです。もし、国民が「医者を増やしても医療費の増加は僅かである」と考えれば、医師不足の日本で大学医学部の定員を増やす合意を得ることは容易でしょう。現にアメリカでは、財政赤字にもかかわらず、医師の数を大胆に増やしています。

 この事実は、アカデミズムが探求した事実・真理を、業界全体や社会全体に広めて、コンセンサスを形成することが如何に難しいかを示しています。言い換えれば、これまでの日本では専門家集団(この場合は、医療経済研究者)と業界(医療業界)や社会(一般国民)を繋ぐ、情報伝達手段が有効に働いていなかったということにもなります。医師誘発需要学説のような専門性が高い話題は、テレビや一般紙のようなマスメディアでは扱いにくいのでしょう。事実、これまでに医師誘発需要学説の問題点を指摘した記事は殆どありません。私は、このようなマスメディアが取り扱いづらい情報の普及に、JMMのようなメールマガジンやオンラインメディアの果たす役割に大きな期待を抱いています。

 現在の我が国において、国民への情報開示に反対する人はいないでしょう。しかしながら、問題は「いかに情報を開示して、伝え、コンセンサスを得るか」なのです。この「如何に」という部分に関しての議論はまだまだ足りないと感じています。

 次回、近年、我が国の医療界で巻き起こった「医師絶対数不足と医師偏在をめぐる論争」を紹介させていただきます。

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上 昌広(かみ・まさひろ)
東京大学医科学研究所 探索医療ヒューマンネットワークシステム部門:客員准教授
Home Page:<http://expres.umin.jp/>
帝京大学医療情報システム研究センター:客員教授
「現場からの医療改革推進協議会」
<http://plaza.umin.ac.jp/~expres/mission/genba.html>
「周産期医療の崩壊をくい止める会」
<http://perinate.umin.jp/>
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