「第三次試案の感想」
NPO法人医療制度研究会 中澤堅次
■論旨:
診療関連死は、ミスと自然死、救命上の事故と犯罪、家族と医療者の信頼関係、被害者への補償、再発防止など、医療の原点にかかわり、死生観など国民意識に関係する重大な問題を含んでいる。試案は医療事故への警察介入という問題解決に第三者機関を作り、診療関連死全般にわたる問題を解決しようとした。
多くの反対意見に修正を重ねたが、第三次試案が構造上かかえる矛盾がかえってはっきりしたという印象があり、主に医療安全と、病院と家族の信頼関係においてその感が強い。これは第二次試案で問題になった当事者の人権に配慮した結果生じた矛盾で、医療安全に行政統治を盛り込んだことも矛盾を深めている。
本案は多くの欠点を内蔵し、その欠点は構造的なもので修正では対応できない。強制力を伴い、多大な財源と膨大な専門人材を投入する第三次試案は、診療関連死という医療の根幹にかかる問題を解決するものではなく、反対に統治を意識しすぎた結果、安全と信頼という医療に最も重要な理念に障害を与える結果となった。
医療安全の手法は所轄官庁である厚労省のリスク管理にまず取り入れるべきである。医師不足、薬害エイズ、C型肝炎、癩、年金問題の先延ばし、病床のカウント違いなど、どれをとってもこの官庁が、ここで言う委員会を統括する資格のないことがわかる。学会や医師会も医療のプロとしての関係を認識し、反省に立ち、前時代的なこの案を廃案とするべきである。
■中央安全委員会では勤務医の存在は否定されている
第三次試案では中央委員会が大きなポイントである。この委員会が司法上の医療水準を決め、行政処分に強制権をもつことになる。個人の責任追及ではなく再発防止に役割を置くとしているが、14ページに図示された委員会の構成は、最も重要な当事者を代表する勤務医の立場は反映されていない。
有識者と法曹関係者の他は医療者であるが、学会は医療の水準を高めるのが仕事で、審判にかかわると水準は厳しいことは定評がある。病院会は病院長の集団、医師会は医療関連死を扱わない医師が構成員である。いずれも現場とは離れた人たちで、医学のプロであるが司法上の資格も安全管理の経験は伺えない。その人達が医師の職業生命がかかる法的判定を下し、現場の指導をして良いのか疑問が残る。
■第三次試案で明確化した医療安全に関係する問題点
第三次試案に見られる変更で明らかになった矛盾を考察する。
1) 第三次試案では事故当事者の黙秘権を認めている。
これにより当事者の人権は確保されたが、事故の真相究明があやしくなった。人権に配慮した結果、当事者の情報は得にくくなり、犯罪捜査のように証拠を固めて泥を吐かせる方式以外に真相を知る手段はなくなった。院内調査は不確実になり、委員会の役割である行政指導も根拠を失う。事故の真相究明は不可能になり、改善活動にも家族の納得にも支障をきたす。処罰につながる調査において、黙秘権と再発予防との間にある矛盾が一層明らかになったかたちである。
2) 調査委員会の結論が病院や遺族の意見と異なる場合は、別にその旨を添付することになった。
病院の意見が述べられるように改善された形だが、委員会の意見と病院の見解の相違が併記されれば、家族は利害に有利な見解を尊重する。はじめから現場に厳しい見解が尊重される構造に変化はない。
3) 委員会は報告書作成にあたり、再発予防のための医療水準と過失を判定する現場水準は同一でないことを明記するとしている。
これを受けて、多くの報告書は「医学上に問題があるが、常識的には問題がない」という回答をすることになる。しかし、家族がこれを理解できるかどうか疑問で、問題の焦点である警察捜査の誤解もここにあった。一つの委員会が二つの相反する役割を持ち、二つの水準を使うことがわかりにくい構造なのである。
4) 第三次試案では個人よりはシステムの欠陥に対する行政指導を重視するとしている。
事故は個人が起すものだが解決にはシステムによる対策が有効で、これをエラーというかどうかはともかく、システムを含めて解決策を探ることが医療安全のゴールドスタンダードである。現場では個人レベルの過ちを病院システムの改善により解決することが日常的に行われている。
中央の事故調査委員会が行政処分権限を持ち、システムエラーを検討するのであれば、事故の多くは現場に向かず、医療制度や政策のシステムエラーに結びついてゆく。当直明けの医師が起す事故には、医師の勤務体制が問われ病院システムの検討が行われるが、医師不足に原因があれば、システムの不備は医療政策の中で議論され、政府が解決することが出来るものであれば国のシステムエラーの検討が必要になる。このような改善が国レベルで出来る仕組みを考えているのであれば、間違えやすい名前の薬の認可もなくなり、理想的な国家のリスク管理が出来る。しかし、前文からも中央委員会の構成からもこの意図は見えてこない。
5) 第三次試案は医療機能評価機構に報告された事例を委員会に提供するという仕組みを新たに取り入れた。
医療安全の手法のなかでアクシデント・インシデントの報告制度は画期的な出来事であった。いままで気がつかなかったリスクが次々に報告された。厚労省は強制報告をさせてそれをやろうとしているが、個人や病院の行政処分が目的であれば報告にブレーキがかかる。責任を問わないことを前提にした、アクシデント・インシデント報告に基づく安全活動は完全に死んでしまい、定着しつつある「情報に基づく文化、報告し続ける文化」に壊滅的な打撃を与え、もうひとつの医療危機をもたらすことになる。
以上が第三次試案で明らかになった再発予防改善活動に関する矛盾である。次に問題にするのは、第三者機関が間に入る試案の構造が、家族と病院との信頼関係を対立に変える恐れがあることである。家族と病院の間にはインフォームドコンセントによりある程度の信頼関係があり、医療行為の多くは両者の信頼で問題なく推移するが、結果が悪いと信頼関係が崩れ、診療関連死では両者を結ぶ信頼関係は危機的な状況に陥る。委員会がこの難しい局面に介入することで生じる問題を以下に述べる。
■ 診療関連死に置ける家族と病院との信頼関係に試案が与える影響
1) 委員会が家族と病院との間に入るデザインは双方の信頼関係を対立関係にシフトさせる。
事故後に第三者の立ち入り調査が入れば、病院に問題があったと家族は感じる。悪質のものを選び出すという報告制度は、犯罪と関係ない人に嫌疑を掛けることになり人権の侵害になりそうである。事件発生後病院はくわしい院内調査を行い、責任の範囲を決め、関係改善の努力を行うが、この努力はこの時点で通用しなくなる。立ち入り調査を受けた病院のいうことは聞いてもらえないからである。委員会の調査が出るまで病院は手を打てず、報告が遅れればそれだけ家族の感情を刺激する。危機ともいえる人間関係の修復にはありがたくない介入である。
2) 診療関連死において、責任は病院が取るものであり、委員会が取るわけではない。
責任を負わないのであれば、危機の対応も病院が行うべきで、家族と病院が理解しあう機会を優先するべきである。調整がつかなければ、両者の言い分の正当性を判断するのは司法の役割である。医療のプロとはいえ国家における法的資格のない第三者が、事実上裁判につながる判断を下すことに違和感を覚える。司法判断に連結する役割はプロであっても委員会の役割にはなりえない。プロの委員会が機能するとすれば、司法が行う判断に必要な専門見解を、透明性を持ってサポートする位置しか考えられない。司法上の資格が無いプロが、同業だからといって人権に関係する介入を行い、処分につながる捜査をして、違法性を判断することは司法の基本に反するのではないかと思う。
3) 診療関連死に遭遇した家族が求めるものは、詳しい経過報告、責任の所在、損害の保障であり、最終的に再発防止が行われ死が無駄にならないことを願う。
いま多くの病院が行っていることは、透明性を持って事故の経過を説明し、病院の責任範囲を決める。判断の基準に学会の専門家などの意見を求める。病院が決めた責任範囲を家族に示し、それに応じた損害を補償する。再発予防は現場に即した改善を行い、医療機能評価機構に報告し、必要であれば公表もすることである。家族は病院の態度に納得が行かなければ司法による解決を求める。これが正当な手続きであると思う。
これに対して第三次試案の委員会の役割は、強制権により集めた死亡情報から、犯罪行為や重大な過失を警察に通告する。調査した事例は厚労省が管轄する上級の組織に報告され、上級組織は行政指導として病院を監視する立場になる。しかし、紛争解決は当事者に任せ責任は取らないということである。
4) 正確な事故報告には当事者の情報提供が不可欠で、病院は個人の責任を問わない形で当事者の情報を把握する。
医療事故の場合、当事者は経過の一部始終を見ており、最も重要視されるのは当事者の情報である。この場合、処罰を受ける可能性があれば不利なことは言わない権利が認められる。法律に業務上の犯罪が定義されている現在、公的に免責はないから病院が個人の責任を持つことで正確な情報を得ることにしている。それしか真相解明の手段は無いからである。
5) 重要な問題は医療機関の透明性の確保であり、倫理性が問われる。
院内調査で重要なことは病院の透明性で、これが紛争解決と再発防止にも役立ち、医療機関の信頼性を高める結果になる。問われるものは病院の倫理性で、事故の重大さは別のものである。病院の透明性や倫理性に関係するものであればプロの自浄作用は法律上の規制を受けない。この部分にオートノミー(自治)は発揮されるべきである。仲間同士の報告義務も届け出先が厚労省や警察でない限り許容されると思う。透明度が確保されれば病院の責任も家族への補償も再発防止も矛盾なしで決まる。
6) 第三次試案は医療事故の業務上過失犯罪と刑事免責の問題に触れていない。
反対意見でもこの問題は出てこないが、第三次試案の問題の根源はここにある。もし刑事訴追が無ければ、当事者の情報収集にも、病院の責任範囲を決めるにも、再発防止を行うためにも、また水平に展開して事故の原因と対策を公表するうえでも矛盾は生じない。特に家族の信頼を取り戻すためには大きな力となる。問題があるとすれば当事者の処罰に納得を求める家族の感情であるが、医療事故の場合原状回復は不可能であり、死んでお詫びをというわけにもいかず、できる範囲で誠意を持った補償しか方法が無い。家族もこのことは納得していただいていると思う。
昔は、技術者は支配者の下僕であり、下僕の過失には罰を与えることが常識だったと思われる。技術が進んで技術者の罪は技術者にしかわからなくなった。国民が求めるものは透明性であるが、その透明性もプロで無ければ確保できない時代になっている。それと同時に技術者の人権も認められるようになり強制力による透明性確保は、技術者の人権との間に矛盾が生じる。法体系そのものにも新しい考え方は必要である。
■ おわりに
第三次試案は医療安全に目的を大きく変えているが、骨格上は業務上過失の追求と処分を強く意識している。世界的な医療安全の思想は業務上過失と医療事故の免責の方向であるが、試案の方向性は有責を維持したまま、同時に医療安全を目的とする点で矛盾を生じている。
診療関連死は国民の死生観に深く関係している。しかし、死は究極の問題ではあるが終決を意味し、ある程度問題が単純化されている。診療に関連した障害、それも後遺症を起した障害はもっと複雑な要素を抱える。
ミスが関係する医療事故は、人が行う限り稀な確率であるが必ず遭遇する問題であり、被害者の補償という面では責任の範囲を含めて、質的にも量的にも膨大な問題が背後に存在する。現場での解決を重視するべきで、中央官庁が管轄する司法体系を変えるような大げさなシステムは機能的にもまた問題の広がりにも耐えられないだろう。
死生観は人口の高齢化で近年大きく変わりつつあり、近い将来大きな変化が起きると予想される。人口が若く死が非現実であった時代の価値観は、国民の大部分が死を迎える今後の価値観とは異なったものになるし、医療も変わらなければならない。死の定義を官庁が主導して行うことは出来ない。問題は国民と現場に下ろされるべきである。国家の役割は技術者の監視・監督・処罰ではなく技術者を後ろからサポートとして国民のために機能することを図るべきであり、同業者は信頼をつなぐために倫理性の確保に方向性を変えるべきである。
文責:NPO法人医療制度研究会 中澤堅次
診療関連死は、ミスと自然死、救命上の事故と犯罪、家族と医療者の信頼関係、被害者への補償、再発防止など、医療の原点にかかわり、死生観など国民意識に関係する重大な問題を含んでいる。試案は医療事故への警察介入という問題解決に第三者機関を作り、診療関連死全般にわたる問題を解決しようとした。
多くの反対意見に修正を重ねたが、第三次試案が構造上かかえる矛盾がかえってはっきりしたという印象があり、主に医療安全と、病院と家族の信頼関係においてその感が強い。これは第二次試案で問題になった当事者の人権に配慮した結果生じた矛盾で、医療安全に行政統治を盛り込んだことも矛盾を深めている。
本案は多くの欠点を内蔵し、その欠点は構造的なもので修正では対応できない。強制力を伴い、多大な財源と膨大な専門人材を投入する第三次試案は、診療関連死という医療の根幹にかかる問題を解決するものではなく、反対に統治を意識しすぎた結果、安全と信頼という医療に最も重要な理念に障害を与える結果となった。
医療安全の手法は所轄官庁である厚労省のリスク管理にまず取り入れるべきである。医師不足、薬害エイズ、C型肝炎、癩、年金問題の先延ばし、病床のカウント違いなど、どれをとってもこの官庁が、ここで言う委員会を統括する資格のないことがわかる。学会や医師会も医療のプロとしての関係を認識し、反省に立ち、前時代的なこの案を廃案とするべきである。
■中央安全委員会では勤務医の存在は否定されている
第三次試案では中央委員会が大きなポイントである。この委員会が司法上の医療水準を決め、行政処分に強制権をもつことになる。個人の責任追及ではなく再発防止に役割を置くとしているが、14ページに図示された委員会の構成は、最も重要な当事者を代表する勤務医の立場は反映されていない。
有識者と法曹関係者の他は医療者であるが、学会は医療の水準を高めるのが仕事で、審判にかかわると水準は厳しいことは定評がある。病院会は病院長の集団、医師会は医療関連死を扱わない医師が構成員である。いずれも現場とは離れた人たちで、医学のプロであるが司法上の資格も安全管理の経験は伺えない。その人達が医師の職業生命がかかる法的判定を下し、現場の指導をして良いのか疑問が残る。
■第三次試案で明確化した医療安全に関係する問題点
第三次試案に見られる変更で明らかになった矛盾を考察する。
1) 第三次試案では事故当事者の黙秘権を認めている。
これにより当事者の人権は確保されたが、事故の真相究明があやしくなった。人権に配慮した結果、当事者の情報は得にくくなり、犯罪捜査のように証拠を固めて泥を吐かせる方式以外に真相を知る手段はなくなった。院内調査は不確実になり、委員会の役割である行政指導も根拠を失う。事故の真相究明は不可能になり、改善活動にも家族の納得にも支障をきたす。処罰につながる調査において、黙秘権と再発予防との間にある矛盾が一層明らかになったかたちである。
2) 調査委員会の結論が病院や遺族の意見と異なる場合は、別にその旨を添付することになった。
病院の意見が述べられるように改善された形だが、委員会の意見と病院の見解の相違が併記されれば、家族は利害に有利な見解を尊重する。はじめから現場に厳しい見解が尊重される構造に変化はない。
3) 委員会は報告書作成にあたり、再発予防のための医療水準と過失を判定する現場水準は同一でないことを明記するとしている。
これを受けて、多くの報告書は「医学上に問題があるが、常識的には問題がない」という回答をすることになる。しかし、家族がこれを理解できるかどうか疑問で、問題の焦点である警察捜査の誤解もここにあった。一つの委員会が二つの相反する役割を持ち、二つの水準を使うことがわかりにくい構造なのである。
4) 第三次試案では個人よりはシステムの欠陥に対する行政指導を重視するとしている。
事故は個人が起すものだが解決にはシステムによる対策が有効で、これをエラーというかどうかはともかく、システムを含めて解決策を探ることが医療安全のゴールドスタンダードである。現場では個人レベルの過ちを病院システムの改善により解決することが日常的に行われている。
中央の事故調査委員会が行政処分権限を持ち、システムエラーを検討するのであれば、事故の多くは現場に向かず、医療制度や政策のシステムエラーに結びついてゆく。当直明けの医師が起す事故には、医師の勤務体制が問われ病院システムの検討が行われるが、医師不足に原因があれば、システムの不備は医療政策の中で議論され、政府が解決することが出来るものであれば国のシステムエラーの検討が必要になる。このような改善が国レベルで出来る仕組みを考えているのであれば、間違えやすい名前の薬の認可もなくなり、理想的な国家のリスク管理が出来る。しかし、前文からも中央委員会の構成からもこの意図は見えてこない。
5) 第三次試案は医療機能評価機構に報告された事例を委員会に提供するという仕組みを新たに取り入れた。
医療安全の手法のなかでアクシデント・インシデントの報告制度は画期的な出来事であった。いままで気がつかなかったリスクが次々に報告された。厚労省は強制報告をさせてそれをやろうとしているが、個人や病院の行政処分が目的であれば報告にブレーキがかかる。責任を問わないことを前提にした、アクシデント・インシデント報告に基づく安全活動は完全に死んでしまい、定着しつつある「情報に基づく文化、報告し続ける文化」に壊滅的な打撃を与え、もうひとつの医療危機をもたらすことになる。
以上が第三次試案で明らかになった再発予防改善活動に関する矛盾である。次に問題にするのは、第三者機関が間に入る試案の構造が、家族と病院との信頼関係を対立に変える恐れがあることである。家族と病院の間にはインフォームドコンセントによりある程度の信頼関係があり、医療行為の多くは両者の信頼で問題なく推移するが、結果が悪いと信頼関係が崩れ、診療関連死では両者を結ぶ信頼関係は危機的な状況に陥る。委員会がこの難しい局面に介入することで生じる問題を以下に述べる。
■ 診療関連死に置ける家族と病院との信頼関係に試案が与える影響
1) 委員会が家族と病院との間に入るデザインは双方の信頼関係を対立関係にシフトさせる。
事故後に第三者の立ち入り調査が入れば、病院に問題があったと家族は感じる。悪質のものを選び出すという報告制度は、犯罪と関係ない人に嫌疑を掛けることになり人権の侵害になりそうである。事件発生後病院はくわしい院内調査を行い、責任の範囲を決め、関係改善の努力を行うが、この努力はこの時点で通用しなくなる。立ち入り調査を受けた病院のいうことは聞いてもらえないからである。委員会の調査が出るまで病院は手を打てず、報告が遅れればそれだけ家族の感情を刺激する。危機ともいえる人間関係の修復にはありがたくない介入である。
2) 診療関連死において、責任は病院が取るものであり、委員会が取るわけではない。
責任を負わないのであれば、危機の対応も病院が行うべきで、家族と病院が理解しあう機会を優先するべきである。調整がつかなければ、両者の言い分の正当性を判断するのは司法の役割である。医療のプロとはいえ国家における法的資格のない第三者が、事実上裁判につながる判断を下すことに違和感を覚える。司法判断に連結する役割はプロであっても委員会の役割にはなりえない。プロの委員会が機能するとすれば、司法が行う判断に必要な専門見解を、透明性を持ってサポートする位置しか考えられない。司法上の資格が無いプロが、同業だからといって人権に関係する介入を行い、処分につながる捜査をして、違法性を判断することは司法の基本に反するのではないかと思う。
3) 診療関連死に遭遇した家族が求めるものは、詳しい経過報告、責任の所在、損害の保障であり、最終的に再発防止が行われ死が無駄にならないことを願う。
いま多くの病院が行っていることは、透明性を持って事故の経過を説明し、病院の責任範囲を決める。判断の基準に学会の専門家などの意見を求める。病院が決めた責任範囲を家族に示し、それに応じた損害を補償する。再発予防は現場に即した改善を行い、医療機能評価機構に報告し、必要であれば公表もすることである。家族は病院の態度に納得が行かなければ司法による解決を求める。これが正当な手続きであると思う。
これに対して第三次試案の委員会の役割は、強制権により集めた死亡情報から、犯罪行為や重大な過失を警察に通告する。調査した事例は厚労省が管轄する上級の組織に報告され、上級組織は行政指導として病院を監視する立場になる。しかし、紛争解決は当事者に任せ責任は取らないということである。
4) 正確な事故報告には当事者の情報提供が不可欠で、病院は個人の責任を問わない形で当事者の情報を把握する。
医療事故の場合、当事者は経過の一部始終を見ており、最も重要視されるのは当事者の情報である。この場合、処罰を受ける可能性があれば不利なことは言わない権利が認められる。法律に業務上の犯罪が定義されている現在、公的に免責はないから病院が個人の責任を持つことで正確な情報を得ることにしている。それしか真相解明の手段は無いからである。
5) 重要な問題は医療機関の透明性の確保であり、倫理性が問われる。
院内調査で重要なことは病院の透明性で、これが紛争解決と再発防止にも役立ち、医療機関の信頼性を高める結果になる。問われるものは病院の倫理性で、事故の重大さは別のものである。病院の透明性や倫理性に関係するものであればプロの自浄作用は法律上の規制を受けない。この部分にオートノミー(自治)は発揮されるべきである。仲間同士の報告義務も届け出先が厚労省や警察でない限り許容されると思う。透明度が確保されれば病院の責任も家族への補償も再発防止も矛盾なしで決まる。
6) 第三次試案は医療事故の業務上過失犯罪と刑事免責の問題に触れていない。
反対意見でもこの問題は出てこないが、第三次試案の問題の根源はここにある。もし刑事訴追が無ければ、当事者の情報収集にも、病院の責任範囲を決めるにも、再発防止を行うためにも、また水平に展開して事故の原因と対策を公表するうえでも矛盾は生じない。特に家族の信頼を取り戻すためには大きな力となる。問題があるとすれば当事者の処罰に納得を求める家族の感情であるが、医療事故の場合原状回復は不可能であり、死んでお詫びをというわけにもいかず、できる範囲で誠意を持った補償しか方法が無い。家族もこのことは納得していただいていると思う。
昔は、技術者は支配者の下僕であり、下僕の過失には罰を与えることが常識だったと思われる。技術が進んで技術者の罪は技術者にしかわからなくなった。国民が求めるものは透明性であるが、その透明性もプロで無ければ確保できない時代になっている。それと同時に技術者の人権も認められるようになり強制力による透明性確保は、技術者の人権との間に矛盾が生じる。法体系そのものにも新しい考え方は必要である。
■ おわりに
第三次試案は医療安全に目的を大きく変えているが、骨格上は業務上過失の追求と処分を強く意識している。世界的な医療安全の思想は業務上過失と医療事故の免責の方向であるが、試案の方向性は有責を維持したまま、同時に医療安全を目的とする点で矛盾を生じている。
診療関連死は国民の死生観に深く関係している。しかし、死は究極の問題ではあるが終決を意味し、ある程度問題が単純化されている。診療に関連した障害、それも後遺症を起した障害はもっと複雑な要素を抱える。
ミスが関係する医療事故は、人が行う限り稀な確率であるが必ず遭遇する問題であり、被害者の補償という面では責任の範囲を含めて、質的にも量的にも膨大な問題が背後に存在する。現場での解決を重視するべきで、中央官庁が管轄する司法体系を変えるような大げさなシステムは機能的にもまた問題の広がりにも耐えられないだろう。
死生観は人口の高齢化で近年大きく変わりつつあり、近い将来大きな変化が起きると予想される。人口が若く死が非現実であった時代の価値観は、国民の大部分が死を迎える今後の価値観とは異なったものになるし、医療も変わらなければならない。死の定義を官庁が主導して行うことは出来ない。問題は国民と現場に下ろされるべきである。国家の役割は技術者の監視・監督・処罰ではなく技術者を後ろからサポートとして国民のために機能することを図るべきであり、同業者は信頼をつなぐために倫理性の確保に方向性を変えるべきである。
文責:NPO法人医療制度研究会 中澤堅次