医療崩壊を招く刑事介入


~柔軟にニーズに応える対話自律型ADRへ~

 平成18年2月18日、福島県立大野病院の産婦人科医が、業務上過失致死罪の容疑で逮捕された。誠意を尽くし、手を尽くしても命を救えなかった場合は医療者が逮捕されることを意味し、医療崩壊を促進している。医師一人では安全な体制がとれないため、病院からの医師の引き上げや診療科の閉鎖が相次ぎ、リスクの高い医療を行わない病院が増えている。インフォームドコンセント等の書類をつくることが社会的に要求されるため、治療そのものよりも書類作成に時間がとられ、患者・家族と医療従事者との信頼関係構築が難しくなっている。

 業務上過失致死傷罪の他にも、刑事が医療に介入し得る大きな罪刑として、終末期医療における殺人罪の適用がある。平成19年2月28日、東京高等裁判所の判決が出された。喘息重積発作による心肺停止で川崎協同病院に運び込まれ、何とか蘇生はしたものの、重度の低酸素性脳損傷による昏睡状態を脱することができず、気道内チューブを挿管してから2週間経過し、抜管か気管切開かの判断を迫られたとき、家族の希望により抜管し死亡に至った症例について、医師の殺人罪が成立するとした判決である。

横浜地方裁判所に提出された起訴状にある、次のような衝撃的な文章が、医療に刑事が介入することの不適切さを物語っている。
「気管支喘息重積発作に伴う低酸素性脳症で入院中のXXに対し、殺意をもって、(中略)気管内チューブを抜去し(中略)同人を呼吸筋弛緩に基づく窒息により死亡させて殺害したものである。罪名および罰状 殺人 刑法199条」 殺人罪を前提として、その構成要件を満たすか否かという法的理論に持ち込まれた結果、患者のためを考え、家族の希望も聞き、医師が苦悩の末に行った医療行為が、「殺意をもって・・・殺害した」こととされ、起訴状は、その医師がいかに非道な人物かを示す文章となる。

 この世を去っていく人は、我が国では年間約100万人いる。そのうち約85万人 ※1 は、医療機関で最期を迎える。ほとんどの日本人が、それぞれの人生の幕を閉じる場所は、医療機関であり、そこで働く医療従事者は、日常的に人の死と向き合い、苦悩している。この世に生を受けたすべての者に必ず死が訪れるという自然の摂理を、医師だからといって、覆すことは到底できないからだ。否応なく死が訪れる患者や家族を目の前にしたとき、せめて医師にできることは、それぞれの人生最後の幕引きを、どのように迎えるか、(本人は意識がない場合が多いので)家族と相談して決めることだけである。また、家族がいない場合、家族が判断を示さない場合、家族・親族の中で意見がまとまらない場合などは、医師が判断を迫られることになり、その苦悩は計り知れないものとなる。

 人生最後の幕の引き方は、人それぞれ違うものだ。これまで生きてきた人生における価値観や、死生観、宗教観、家族との関わり方、病気などの進行の速さ、本人や家族の心の準備の程度など、あらゆる状況を視野に入れつつ一連の大きな流れの中で判断するものであり、この世に誰一人として同じ人生を歩んだ人間が存在しないことひとつをとっても、死に様が同じ人間は存在しないということがおわかりいただけるだろう。

 法律やガイドライン等によって、全国一律に人の死に方を決めるなどということは、不可能であるし、国や裁判所が死に方を決めて国民に押しつけるなどということは、あってはならないことだ。ましてや、刑事司法の手続きによって、臨床経過の全体像を俯瞰することなく、わずかな行為の一局面だけを切り取って、あたかも一般刑法犯のように、「殺意があったのか、殺害行為かどうか」などと言って、その是非を裁くことがまかり通るような社会では、人の死に、真摯に向き合う医療従事者はいなくなるだろう。否応なく訪れる死を、患者・家族と共に迎えることが、即ち、逮捕・起訴され、一生殺人犯として扱われることを意味するからだ。

 上記の東京高等裁判所の判決文からは、このような法の限界を十分に理解し、医療を法で裁くことの不適切さを知りながらも、司法手続きに縛られるしかなかった裁判官の苦悩が読み取れる。患者の自己決定権からのアプローチについて、(1)尊厳死を許容する法律がない状況で、刑法202条による自殺関与行為及び同意殺人行為が違法とされていることとの矛盾のない説明ができないこと、(2)急に意識を失った者については、元々自己決定できないことになるし、家族による自己決定の代行は、必ずしも患者本人の気持ちに沿わない思惑が入り込む危険のあること、また患者の意思の推定というのは、フィクションにならざるを得ない面があり、意識を失う前の日常生活上の発言等は、そのような状況に至っていない段階での気楽なものととる余地が十分あることを指摘して、自己決定論による解釈の危うさや限界を述べ、また、医師の治療義務の限界からのアプローチについては、(3)少しでも助かる可能性があれば医師には治療を継続すべき義務があるのではないかという疑問も実は克服されていないこと、(4)医師として十中八九助からないと判断していても最後まで最善を尽くすべきであるという考え方は単なる職業倫理上の要請に過ぎないといえるのかなお検討の余地がある、として、(5)いずれのアプローチにも解釈上の限界があるとしている。尊厳死の問題は、(6)幅広い国民の意識や意見の聴取はもとより終末期医療に関わる医師、看護師等の医療関係者の意見等の聴取もすこぶる重要であり、(7)世論形成に責任のあるマスコミの役割も大きいとして、裁判所は当該刑事事件の限られた記録の中でのみ検討を行わざるを得ない、とその限界を認識したうえで、(8)この問題は国を挙げて議論・検討すべきものであって司法が抜本的な解決を図るような問題ではないのである、と結論している。

 医療の事案を刑事司法に持ち込み、限定された行為のみをとりだして、犯罪構成要件に当たるか、一般的に違法性があるかどうかといった法的判断だけを求めることは、医療従事者にとっても法律家にとっても、そして誰よりも、患者・家族にとって、好ましいこととはいえない。より柔軟に、個別ケース毎の患者・家族のニーズから出発し、様々な可能性の中から当事者自身が最善と思われる解決を自律的に模索していくという「私的自治」を追求する対話自律型ADRの確立が求められている。対話自律型ADRにおいては、第三者が仲介し対話の場を提供することによって「相手方と向き合って話したい」というニーズを満たすこともできる。

 対話自律型ADRこそ機能的で、ニーズ応答的で、そして医療者と患者の関係を、悲嘆を超えてつないでいく、有意義な効果を持ちうる解決方法として、大きな期待を集めている。



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